劇場版スタァライト感想と考察vol.6 雨、傘、血、トマト。

アニメ
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『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』
今回は雨の描写から発展させて、ネタバレありで感想と考察。

疑問の発端は13年前。華恋とひかりの出会い。
それは雨の降る日だった。
なぜ、二人の出会いの日に雨は降らなければいけなかったんだろう、と。

作中、雨の描写は以下。
(1)13年前、華恋とひかりの出会い。
(2)皆殺しのレヴュー後に舞台装置の降らした血の雨。
(3)6年前、華恋『青空の向こう』の「ノンノンだよ」発言時。
(4)3年前、華恋、ドーナツ屋を出てボイトレに向かう時。
(5)3年前、華恋、ボイトレの帰路。

華恋について考察すると、雨というよりも、傘が重要なポイントになる。
(4)の描写で華恋が取り出した傘は、赤の折り畳み傘だった。
折り畳み傘は、マキさんの言う「いつどんな舞台にでも立てるよう、今行ける一番のところを目指す」を表現している。

(1)では母の持つ傘の下で、ひかりのごきげんように対して、母の後ろに隠れていた華恋が、
スタァライトに出会い、ひかりとの運命を信じ、劇団アネモネで舞台をするなかで、
(3)「ノンノンだよ」という言葉をかけながら、だれかに傘をかけられるようになる。

(4)ドーナツ屋での同級生の台詞。
「カバン、何でいく?」
「雨降ったら最悪だな」
「雨降ったらゲーセン行かね?」
「雨、気を付けてね」
カバンを傘と同義とすると、雨が降ったら別の道への逃避ではなく、華恋はいつ雨が降ってもよいように、常に折り畳み傘を持っているような毎日を過ごしてきたと言える。
では、ここでいう雨は具体的に何をあらわしているのだろう。

ここで、作中雨描写(2)の舞台装置の降らした血の雨に立ち返る。
血を流すことと、舞台少女としての死は同義ではない。
雨自体は透明。
そこに、トマトを食べることで赤が加わる。
血を流して舞台少女の死を迎えてしまうのか、血を流しても新たな自分に生まれ変われるのか。
全ては自分次第ということだろう。

ここでトマトがでてきたわけだが、このトマト、華恋とひかりのトマトだけが他の7人と違う描かれ方をしていた。
冒頭の破裂する華恋のトマト。
キリンが最後に渡したひかりのトマト。
華恋がひかりと東京タワーで再会するも、星摘みの塔の頂上に置いたまま食べずにひかりのもとに向かおうとしたことで破裂したトマト。
この3つのトマト、全て濡れていたのである。
皆殺しのレヴューで、ななの両脇にある赤い旗は華恋とひかりのトマトをあらわしており、その2つは、ななが列車を切り離したことで血の雨を浴びていない。

そして、華恋のトマトは最後にもう1つ登場する。華恋が舞台少女として死にかけたとき、ひかりがもう一度華恋に手紙を書き、帰ってきてっと叫んだ声に、5歳の幼稚園服の華恋が振り向き、手に持っていたトマトを死にかけている華恋に渡す。
このトマトが作中、唯一キリン(=観客)からではなく、自分自身からもたらされたトマト。

「私も……ひかりに負けたくない」
劇の台詞から取り入れた「ノンノンだよ」とは違い、華恋自身から生まれたこの最後のセリフでワイルドスクリーンバロックは閉幕する。

ここまで考察して、ふとアニメ3話を思い出した。
真矢に負けた後の華恋は傘を持てず、中庭で雨に打たれながら何もできなかったとひかりに言って、「……バカ」と頬を打たれる。
ずっと、ずっと、どんな舞台にでも立てるようにと努力してきたのに。
もうあの華恋の顔で心臓破れそうなんだが。

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